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【ご詠歌】
後の世の 道を比企見の 観世音
この世を共に 助け給へや
当山は元正天皇の御代、養老2年(718年)沙門逸海が岩殿の嶺に登り、毘首羯磨作の本尊を岩窟に安置し、かたわらに草庵をむすび正法庵と言った。これが正法寺という名称の始めといわれている。
延暦年中、比企の山中に悪龍がすみ、多くの人民を苦しめ、農作物を荒し時には牛馬や鶏まで被害をうけた。時に桓武天皇10年奥州逆徒征伐のため坂上田村麿公征夷大将軍に任じられ、兵卒をひきいて奥州に向う。
 
 
途中武蔵野の山にひそむ悪龍を退治して民百姓の災いを救わんと兵卒に告げる。将軍観音の御宝前に額ずき、日夜祈願したが悪龍の姿を見つけられなかった。不思議にも旧6月1日、初夏というのに寒気がおこり、朝には尺余の雪が降り積もっていた。将軍は大悲●護の奇瑞をいただき兵卒をひきいて岩殿山頂に登り(雪見峠)四方をみわたすと北の方に雪の解けている所を見つけた(雪解沢)。果たせるかな其処には悪龍が横たわっていた。将軍は観音を念じ一矢もと見事悪龍を退治することができたという伝説がある。龍の頭を本堂東1Kmに沼があり、その沼の中に埋め、塚を築いて弁財天を祀る。以来その池の蛙は鳴かない。故に不鳴池(なかずがいけ)という。村人たちは「感謝の気持ちで麦わらを燃やし暖をとらせ、饅頭を作って兵卒の労をねぎらった。この行事を「けつあぶり饅頭」といっている。 桓武帝15年田村麿に伽藍造立の宣旨の喝諸堂の外60余院を造営した。あと3百年余を経て朽ちたが、源頼朝の妻政子は亡君の志をつぎ正治2年悉く再興する。降って天文の頃秀吉が小田原城攻略の際、松山城もこの難に遭い、戦場となり堂宇悉く灰燼に帰した。その後、「天正2年中興栄俊が再興された。 徳川家康公より御朱印二十五石を拝領し天下奉平国家安穏の祈願を行う。降って明治11年失火により灰燼に帰したが19年再建立された。
 
開創当初の本尊の千手観音は室町時代作の金銅製である。正しくは千年千眼観世音菩薩というが、それぞれの手のひらに眼がついているので、そのように呼ばれている。
  実際に千本の手がある像は極めて少なく、一般に42臂のものが多い。当山の観音も後者の方である。又、頭上に九面、十面の頭上面がついているが、当山のは九面の頭上面をおき、そして胸前に合掌手、その下に掌を仰いで宝鉢をのせる宝鉢手をおき、ほかに大小の脇手をつけるかたちで、左右それぞれ十九本の手が付けられている。合掌手、宝鉢手、脇手三十八本の計四十二本の手をもつ像がいちばん多いといわれてる。当山のはこの形の像である。
  明治十一年の観音堂失火時は、観音堂屋根瓦の葺きかえ中だったので千手観音千手観音は本坊のほうへ移しておいたので、火災からの難をさけることができた。

宗派:真言宗智山派
住所:埼玉県東松山市岩殿1229
電話:0493(34)4156
公式サイト:>>>
開門時間:午前8時〜午後5時
トイレ:あり
駐車場:(一般)10台 (バス)物見山駐車場

【電車】
東武東上線高坂駅下車、西口地より鳩山ニュータウン行バスにて大東文化大学下車。徒歩2分で観音堂。納経所はさらに石段を下りて本坊にて。

【車】
関越自動車道「鶴島IC」より10km15分。 東松山ICより10分。

地図で確認 >>>

■年間行事
1月1日〜7日…元旦初護摩修行 
2月3日…節分会 
4月15日…大般若経転読 
7月1日…尻あぶり 
8月27日…万霊水子施餓鬼 
12月22日…冬至祭 
12月31日…除夜の鐘